2015年10月29日

字論(ジロン〜っ)す。

文学の第一義は、日本語に集う「文字」を守ること、そして
文字の意味世界を「現実(虚像と一体となった実像世界)」に拡げることだと考える。

だからだろうか。
私にとって、欠け落ちて往くように(整理され)狭まる(進行形の)文字世界で、
誰にでも伝わりやすい、簡単な言葉を使う現代の全体的な風潮そのもの、
− つまりは簡便な帯域に収まること。− を、良いとは決して思わない。
かなり興味がないのだ。

現代、固定化されている部分の日本語は、(意味もなく使われてしまうので)
非常に痩せた文章を作り固めるのだろう。

私は、大勢が読んでもよくわからないものでも、
その背後に明瞭な論理を感じさせる文章、
もしくは、思わず辞書を索きたい、と思わせる文章。
さらに、辞書にも余るほどの意味性があふれる文章。を良く思う。

そこを空間的に捉えると、孤島であると同時に多量な所だ。
一歩踏み入れると、具体的な物質が、物質の形状に収まらない。


さあ、ここに示した、文字存在の第一義とも言える取り組みを成した後に、
生きとし生きるものとして発生する「直な交流」に準ずれば良いのである。


現代(既に過去)を明瞭に否定した、正岡子規の気概が骨身に堪える。
posted by editor-man at 20:54| 日記

2015年10月25日

夢 水槽のある宿で

そこは宿と研究施設の中間のような場所だった。
入ってすぐに大きな水槽があって、イルカと人が泳ぐのを見た。
水槽には海水が入っているらしい。
イルカが住むには狭すぎる。
ここは何らかのショー、もしくは実験や観察などの目的で細々と運営されているらしい。
どうやら僕は、その宿に数日泊まっていたらしい。
夢の中で、「そこに泊まった最終日の場面かな。」と、感じていたが、
どうやら、ほとんどが水槽が気になってもう一度その場所を訪れた時のことなのだ。
それもあって、夢の中では「夢の続き」の夢になっていた。
しかし、思い返しても初めての夢なのだ。

水槽には水だけがあった。

僕は水槽を眺めていた。
そして、想像した。

この水槽に人(女性)が入り、踊る。
それを撮影する。
特に意味があるものではないが、このやり方なら
2、30分くらいの映像作品が作れるのではないかな。と思った。
普段から、自分の作品を作れたらいいな。という希望が深層にあったので
夢の中でも、不自然に感じることはなかった。
おそらく、泳いでいる姿さえ踊っているように見えるのではないだろうか。

宿の従業員がいたので、撮影してもいいか。
と、聞いた気がする。
話しかけた女性は、前に泊まった時に見かけた女性の顔ではなく、
初めて話した人だから、その時、二度目の夢との意識が強まったのだろう。
ちなみに、私はこの宿の人は女性しかしらない。

女性は水槽の前で熱心に話し出した。

以前見た、イルカとダンサーの組みが
これから、別のところ(水族館か展示室)に巡回する予定があるので、
彼女は、丁度、それを撮影しようと思っている、と。

彼女は宿の従業員であると同時に、何らかの研究者なのだろう。

彼女の目は、真剣だった。
USBカメラから、直接パソコンに取り込んで、その場で編集したいが、
macとwindows、どちらを使ったらいいか?
と、急に聞かれても、私には難しく返答に窮してしまったが、
やはり、それは彼女自身で、しっかりと考えていることだった。
現在、windowsで予定している。
ずっと撮影できる小型カメラらしかった。
夢らしく、洋服のベルトが録画スイッチになってる特殊装置でもあった。
これなら、会場から離れていても操作できます。

自分も撮影したいし、面白そうなので、関わることが出来ればいいな。
と思っていたので、僕も自分のことを少し話していた。

この前、この宿から直接ある撮影現場へ向かって、その場でCMの編集をしたんです。
その時はMACでしたよ。

実際、何かできるといいな。

具体的な夢だが、全て夢の中の話だ。
posted by editor-man at 02:22| 日記

2015年10月23日

夢 ノートが回る  深海の少年「自信が地震になる!」 他

夢を見た。

タイムスリップ

あの人(バンド)がコンサートをする。
というので、私は過去に行っていたようだ。

記者会見を兼ねていたので、
会場は立派なホテルだった。

広めの会場に並べられたパイプ椅子。満員だった。

関係者もいるようだった。誰が記者か判別できない。
純粋にファンの人たちも沢山いた。
私は妻と一番後ろに座った。
その時に生きる人ではないから。

バンドのメンバーは、ミュージシャンらしく、
少し木訥で愛想が無いような佇まいだ。

その人は、体の内から外に自信と充実が「はり」となって表れていて、
世界に対する影が見られなかった。
はたから見える筋肉のつき方が、年月の差異を物語っていた。


俳句会をする。


やや突然だった。その人が言うには、俳句会?をするとのことで、
会場が少しざわざわ蠢いた。

前の列から順繰りにノートが数冊、回ってくる。
結局、感想のような短文(俳句)の回し書きのことなのだ。
つまるところ、寄せ書きだと思って頂ければと思う。
それを俳句(連歌)に見立てているのか、実際に俳句なのか。
それは、どちらに転んでも良いのである。

やがて、最後列までノートが着きだした。
妻はいなくなっていて、席には代わりに母がいた。
母は私が何を書くのか、そのことに興味があったようで、
隣にいるだけで、じろじろと覗かれている心地がした。
私は見られたくなかったので、その視線を遮断するように、
ノートを傾け、体を捻りながら書いた。
しかし、俳句をページに大きく書くものだから、
あらかた見られていただろう。
実に普段は手書きの用事は少ないもので、普段あらわれない集中を発した。

おかげで、この夢の中で一番体力を消耗した。


 時を超えて
 君のみ姿
 見に来たよ


こういう時、ファンや友人なら躊躇なく名前を書くのだろう。
、、、私も伝えたくって、下に姓だけ書いた。
自分の字を間違ったのか、自信を無くしたのか、長い線の部分を二度書きしてしまった。
今は確かに字を間違っていたと思う。
このようにして、すっかり感想集となっていたノートの序盤には
バンド(その人)が描いたと思われる、マンガが刷られていた。


ノートには、マンガが描かれていた。


舞台設定はアンダーグランドな異世界。
楳図かずお のような画風で描かれていた。
まさにアングラであった。

頭に複雑な世界背景の説明があった。
深海人間の少年少女がサイキック的に会話できるらしい。
当然、水中では音の伝達が不便なので、別の手段が発達しているわけだ。
この読み物は読み手に、時間と集中を要求していた。
なので、私はパラッと流し見した、に過ぎない。
手元に残っていれば、気が向いた時に読み直したいのだが、
夢の中の限られた作品なので、やはり難しいのかもしれない。

まだ覚えていることもあるのだが、
わかりやすい言葉として明瞭に印象が残り、そこから言葉として残せるのは、
男の子が「自信が地震になる!自信が地震になる!」
と、楳図かずおタッチで、叫んでいるシーン(カット)である。

マンガは十頁ほどあった。
その次の頁からは、そのマンガを原作にした映画のお知らせがあった。
パンフレット未満の分量で、チラシのような写真の色彩がよく映えている。

つまり、感想集と言っていたノートの半分近くは、
最初からバンドの表現活動(あそび)で埋まっていたのだ。


マンガを原作に製作された映画。


映画には意外にも、タレント(柴崎コウ)が主演していた。
ヨーロッパの小さな映画祭に幾つか招待されたらしく、
そこで賞もとっていたらしかった。
バンドにとって、素晴らしく快挙なことである。
但し、それでも興行に大して結びつかないことは、醒めた夢中で理解した。
原作のマンガとは打って変わって、映像美を追求したような
45〜60分程度の静的なアートフィルムのようだから。

原作共に題名は確認できなかったが、
映画のパンフレット(チラシ)には、2004年 と大きく記されていた。

ふと、映画の写真が全面になっていて、
私の体はスクリーンに誘われていた。

映像的には光と色が必要なので、深海というほどでもない。
深みのある青と気泡と、柴咲コウ。

まさに夢らしく、現実感から遠ざかる。

ちなみに、本書は柴崎コウとは、何の関係もない。
夢すぎる飛躍なのだ。

音楽を聴く前に目が覚めた。
イントロくらいは聴いた気もするが、
単に会場のBGMだったと思う。
本当に、あの場所で演奏したのかな?

アホらしいかな。
くだらないかも、と、笑いつつ。 です。


混沌な夢って、見て疲れるだけではなく、
文章にするのも少し疲れます。
その分、書いて良かった。
posted by editor-man at 16:35| 日記

2015年10月03日

それきり

日付は越したが、今朝、夢を見た。

本の表紙に、フラグマン 断章 と、記されていた。
そこでは過去に書かれた日記(何者かでの立場の文章)が
断片的に、本としてまとまっていたのだ。

まだ誰も開いたことのない本なので、
入れる内容に関してはこれから、ゆっくり考えようと思う。

出版のような騒がしい話ではない。

しかしながら、古代では夢は兵を動かすほどの瑞兆とされた。



さて、本書の文脈では「フラグマン」と言えば、与謝野晶子のことであるが、
僕はいつも「ブラフマン」というロックバンドを思い出す。

- これらの言葉は、わからない。-

一部に上映が残っているらしいが、バンドの映画が今夏公開されていたようだ。

公式サイトに載っていた MVは、 わかりやすくて、いいね。

それきり「其限 〜sorekiri〜」

気になった方がいましたら、是非、見てみては如何しょう。
共感もあるが、それ以上に言い当てられている気がして、ドキッとする。



同日昼二、マど口(ノ宇宙)のカイトうを見る。

- センシュは引退しても、イッ生現役ですから。-
- ヒトリひトリ違うから自分を知ってもらうことがダイ一歩なんだ。-

など

合っていた。
他のヨウそもおオかったが、すべて納得のいクモのでした。

posted by editor-man at 01:22| 日記

2015年09月30日

統べる  - カイ 改装 回想 階層 ソウ-  「片想いの成就(翁曰く)」 

ブログを分散したが故に、却って面倒なので一本化する。

本書と窓は、1月6日くらいからでしょうか。

しばし、想いが回り戻ったのもあり、このような 《かいそう》。







先生は仰った。「片想いの成就」だと。

切実に愛について考えてきた。

荒野に生きる、縁(よすが)として。







普段、営みを続けるための仕事の確保とは離れ、
私の場合、表現者としての立ち所は流れている。


ある年月を経て、繰り返し先生の仰った意味がわかりはじめた。

私の場合、炎のような愛の赤みが、いまや
ほの白く霊体の如く存在しているのを感じる。

その力は、そのまま私自身のことにすることもある。
が、どちらかというと、有象無象の綿のような空気がふわふわとして、
ただよい、私の周辺に銀河を想わせる。

私の周りのことなのだ。

物質の現在が裏の彼方の世界と平行しつつ反転し、意識そのものになる。
子供にとっては当たり前のことのような気がするのだが、
かなり強い純度で夢想のゾーンに切り替わる。

視覚の印象が速く、聴覚が横から、肉体は現実に置かれているのかもしれない。

それは、実際の誰とも接することがなくとも、
私の中で独立して「運命」と呼び、受け入れることのできる状態だ。


ふと、複数の声が入れ替わりで聞こえたり「観る」こともある。
現実と入り混じる幽霊ではなく、一般的なイメージ像としてだ。

人によって差はあるのだろうが、距離や質感はある。


具体的に、ほの白く、さもなければ朝夕の雲のように色づいた運命、
夢のように霞がかった身振りだとか、
仮に、そのそれぞれが実際の「人」だとして、、本当に事実に照らされる。
ここに起きる奇跡のような煌きは、怖れを知らぬ者にとっては、宝物のオモチャ。
お星さまのように並び、遊び、糸を通し縫い合わすこともできる。

しかし、直接、当人に話すまでのことではない。
私も含めて人はそれぞれに、やるべきことに追われているのだ。
どこの家でも、老人だって子供だって忙しい。

優先されないものごとを続けるには、
優先されないもので有り続けることでもあるのだろうか。

私の理解は小さなもの。
だから、表現としても幼い。

しかし、今まで本に重ならない散文を綴ったあげくに告白すると、
この文章だけは作品(独立)に近いのかもしれない。
微かだが、離れ離れの文章が一体化するような心地がする。


例えて言うなら、例えは、目が覚めるほど事実に沿って芽吹く。


葉っぱが舞い、鳥が啼く。
あたかも自然の表れが、心と時と所と合わせるように、
ものごとは合わさり、私はここにいるのだと感じる。

自らすすみ、または、招かれるみたい。 - みずから まねかれ -

このような兆しには、望みも含まれる。
現在に対する厭わしさも付いて歩いているのだろう。

物質、ほとんどはお金に由来する悩ましさの中で、
誰にも、どのようにも掴みきれない無垢の空白は、肌や服の外側で通り過ぎる。

とあれ、人々には移り変わり、消えていくだけの儚い点滅が、
その人だけの部屋に、特別なものとして、飾られることとなるのだ。

その点滅の「点」は、共感することで幾らでも繋がることができる。


ここでお伝えする「点」は、人工的なので、特殊である。
元より皆の前で身振り手振りの上、お話されていた、、、私からも申し上げると、
「片想いの成就」は、最もつよく、身体表現に反映されるのだ。
先生においては、数十メートル離れた空間の全体に触れ、ぶつかることができるほど。

- 空間を動かしたり、空気の質を変えるのを見たし、私も試みることがあった。-

先生、すなわち彼のおどりは、ただの一人のカラダに、
「囲った時間と空間」を物理的に托す、技巧作品だから、
「かたおもいのじょうじゅ」は、常識を超えていたが、違和感はなかった。


書き起こすと、信じるかどうかの段階に入るが、
実に共感できるかどうかである。


(私が捕らえた一般論として、一行でお出しする。と。)

共感は、触れなくても肉体に伝わるほど全的で、言い難い。



そう言えば、去年の今あたりも前に、指も触れていない方から、
「わたしをおそわないでください。」と、二度言われることがあった。
言うほうも言われるほうも、人として、どうなんだろう? と思ってしまう。
その時、僕と面していたもう一人の方は、全く覚えていなかった。
それも、人としてどうかと思う。それは、、、
しかし、これも必死の熱の至り、大切したいね。。。不思議な力(出来事)の証拠としても。
二度とあることではないから。 
             ・・・この段落は、未熟である。・・・



さて、振り返る昔話の先端から今ここに翔び戻ると、十五年以上経っていた。
去年、私は先生の稽古場にお伺いし。 再び体験できた。

急流のような目まぐるしい稽古場の片隅に、
私のような挨拶程度の流れ者がいたことは、ご存じなかったようだ。

私は心の中で、先生の弟子だと思い続けている。

posted by editor-man at 23:53| 日記

無題 ダイ


十年以上前に作られたCDを聴いてみて感銘を受けた。

人は年をとるのに、その音は年をとらない。

ちゃんと残るものを作った。ということだ。


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ある人が、会社を辞めて
お友達とIT会社を起業するという話を
人づてに聞いた「夢」。

(窓口のことも凄く意識した。)

気になって本人に聞いてたら、やはりそんなことはなかった。
一方的になるが、私の中、つまり、本書と関係する事象である
可能性はあるので、ここに記録しておく。

自分が観たものなので。

日曜、朝の夢。

posted by editor-man at 02:31| 日記

2015年09月29日

「ひなげしの歌」

検索すると、アグネス・チャンの「ひなげしの花」ばかりが表示される。

これじゃないのだ。

無精なので、諦めて聴いてみる。

あまりに変形した声なので、頭が曲がりそうになった。

せっかくなので、理解したいし、二三回聴く。
すると、とっても良くなった。

なかなかの中毒性。

おじいさんの譜面には「ひなげしの歌」とあった気がする。
それは、外国の歌。

肝心のおじいさんの歌声を拝聴していなかったのは、
僕が声をかけるくらいの頓狂な発生練習をしていらしたから。(発声ね)

どんな歌だろう。

全然違うけど、アグネス・チャンの「ひなげしの花」を聴いて
かなり満足した。

なあに、これは不思議ではない。
僕は不思議に思うけど。

このことも歌にした。




スターなんですね。

posted by editor-man at 21:07| 日記